with BACCHUS - 演技とはなにかカテゴリのエントリ
「どうやったら演技がうまくなるのですか」と真っ正面から聞かれて、思わず絶句してしまった。それは「どうやったら頭がよくなるんですか」とか「世界を平和にするためにはどうしたらいいですか」とかと同じくらい、でっかくて曖昧な質問だからである。それに答えるためだけに膨大な数の本が出版され、天才から凡才まで、数え切れないほどの人が探し求め続けて答えが見つからず、仮に見つけたとしても他に伝えることがきわめて難しいたぐいの質問だからである。
だから当然、僕がその答えを知っているわけでも、まして教えてあげることが出来るわけでもないんだけど、頭に思い浮かぶことをちょっと書いておきたいと思う。個人的な考えであって客観的真実とはかぎらないので念のため。
演技をめぐって「役になりきる」なんて言葉が時々使われるけど、僕はその言葉にあまりとらわれる必要はないと思う。というより、「役になりきる」なんていうのは基本的にはあり得ないと思うし、目標にするべきではないとさえ思っている。極論すれば、殺人者になりきった役者は人を殺さなければならない。ありえない。役者は「登場人物を演じる」のであり「登場人物になる」のではない。もっとも、「登場人物が役者に乗り移った」としか言いようがないような状況が存在するのは確かである。役者本人の主観としても、見ている人が持つ印象としても。
だから当然、僕がその答えを知っているわけでも、まして教えてあげることが出来るわけでもないんだけど、頭に思い浮かぶことをちょっと書いておきたいと思う。個人的な考えであって客観的真実とはかぎらないので念のため。
演技をめぐって「役になりきる」なんて言葉が時々使われるけど、僕はその言葉にあまりとらわれる必要はないと思う。というより、「役になりきる」なんていうのは基本的にはあり得ないと思うし、目標にするべきではないとさえ思っている。極論すれば、殺人者になりきった役者は人を殺さなければならない。ありえない。役者は「登場人物を演じる」のであり「登場人物になる」のではない。もっとも、「登場人物が役者に乗り移った」としか言いようがないような状況が存在するのは確かである。役者本人の主観としても、見ている人が持つ印象としても。
「くさい演技」とか「くさい芝居」とか言うけど、いったいどういうものなんだろうか、と思う。言葉の使い方は人それぞれだし、辞書に載っているような言葉でもきちんと定義された言葉でもないと思うので、以下は僕自身のイメージに過ぎないところから始まってるのだけど…
「くさい」というのはこの場合、「わざとらしい」とか「嘘くさい」といった言葉に似ているような気がする。真実味がなく、表面的に型をなぞっただけという感じだ。演技において「型」というのは大事なものなのだけど、中身が空っぽで型だけで演じているようであればやっぱり「わざとらしい」し「嘘くさい」。型というのはそもそも、充実した内面を表面に出すための法則のようなものだからだ。
表面に現れない内面は観客に通じない。心の中がどれだけ悲しみでいっぱいであっても、外から見てへらへら笑っているだけの顔しか見えないのであれば、心の中の悲しみは見えない。だから、ある程度「自分は悲しんでいるんですよ」という情報を顔に出さなければならないはずだ。ところが、その情報(単純に言えば涙とかだけど)を観客が見た時、「大げさだ」と思えば、それが「くさい」演技になる。
「くさい」というのはこの場合、「わざとらしい」とか「嘘くさい」といった言葉に似ているような気がする。真実味がなく、表面的に型をなぞっただけという感じだ。演技において「型」というのは大事なものなのだけど、中身が空っぽで型だけで演じているようであればやっぱり「わざとらしい」し「嘘くさい」。型というのはそもそも、充実した内面を表面に出すための法則のようなものだからだ。
表面に現れない内面は観客に通じない。心の中がどれだけ悲しみでいっぱいであっても、外から見てへらへら笑っているだけの顔しか見えないのであれば、心の中の悲しみは見えない。だから、ある程度「自分は悲しんでいるんですよ」という情報を顔に出さなければならないはずだ。ところが、その情報(単純に言えば涙とかだけど)を観客が見た時、「大げさだ」と思えば、それが「くさい」演技になる。
演技力ってなんだろうって考えると、多分それだけで一冊の本が書けるくらいの話になるのだろう。しかし、言葉足らずを承知で単純にいうなら、演技力というのは「表現する力」と言っていいのではないかと思う。
作家や評論家や新聞記者は、文章を書くことによって何かを表現するだろう。的確な言葉遣いで何かを相手に届けることができる力を、文章力と呼ぶはずだ。その「何か」が、たとえば駅から自宅までの道順だとすれば、実際に彼の書いた文章を読み、道順を理解してたどり着けるかどうかで、彼の文章力を検証することができる。もちろん、その「何か」は必ずしもそのような具体的なものであるとは限らず、検証することがむずかしいものを表現することが多いのかもしれないが、本質的には同じことが言えるはずだ。
文筆家にとっての言葉や文章に当たるものが、役者にとっては「自分の存在」そのものである。具体的に目に見える形という意味での「全身」はもちろん、声、動き、はては全体からかもし出される「雰囲気」のようなものまで含めて、役者は「自分の存在」すべてを使って何かを表現する。それができる能力が、「演技力」ではないだろうか。狭い意味での「演技」、つまり17歳の女の子が一見60歳の男性であるかのように振る舞う、等というのは、そのごく一部であると僕は思う。
作家や評論家や新聞記者は、文章を書くことによって何かを表現するだろう。的確な言葉遣いで何かを相手に届けることができる力を、文章力と呼ぶはずだ。その「何か」が、たとえば駅から自宅までの道順だとすれば、実際に彼の書いた文章を読み、道順を理解してたどり着けるかどうかで、彼の文章力を検証することができる。もちろん、その「何か」は必ずしもそのような具体的なものであるとは限らず、検証することがむずかしいものを表現することが多いのかもしれないが、本質的には同じことが言えるはずだ。
文筆家にとっての言葉や文章に当たるものが、役者にとっては「自分の存在」そのものである。具体的に目に見える形という意味での「全身」はもちろん、声、動き、はては全体からかもし出される「雰囲気」のようなものまで含めて、役者は「自分の存在」すべてを使って何かを表現する。それができる能力が、「演技力」ではないだろうか。狭い意味での「演技」、つまり17歳の女の子が一見60歳の男性であるかのように振る舞う、等というのは、そのごく一部であると僕は思う。
一番言いたかったことは、「まわりの役者を信じて」ってことだったような気がする。
ある登場人物にすごく迫力があって、その人ににらまれるだけでまわりの人は威圧されて身動き一つできない、そんな登場人物を舞台の上に出現させるとしたら…。その役をもらった役者さんは、一生懸命役作りをしてまわりを威圧できるような迫力のある目つきや立ち居振る舞いを考えるかもしれない。そして鏡の前に立って、すごみのある表情や仕草の研究をし、自分の身体でそれをきちんとなぞれるようにするかもしれない。むずかしいことだけど、それに成功するかもしれない。では、それで確実に「にらまれるだけでまわりの人は威圧されて身動き一つできない」ような人物を舞台の上に出現させることができるだろうか。
ある登場人物にすごく迫力があって、その人ににらまれるだけでまわりの人は威圧されて身動き一つできない、そんな登場人物を舞台の上に出現させるとしたら…。その役をもらった役者さんは、一生懸命役作りをしてまわりを威圧できるような迫力のある目つきや立ち居振る舞いを考えるかもしれない。そして鏡の前に立って、すごみのある表情や仕草の研究をし、自分の身体でそれをきちんとなぞれるようにするかもしれない。むずかしいことだけど、それに成功するかもしれない。では、それで確実に「にらまれるだけでまわりの人は威圧されて身動き一つできない」ような人物を舞台の上に出現させることができるだろうか。
芝居のテンポを上げるということと、芝居をおこなっている時間を短くする(スピードアップ)ということは、本来別のことである。上演時間を短くするためにテンポアップをはかるというのは、考え違いもいいところなのだけど、実際問題としてそんなふうに考えざるを得ない面もあるし、まあスピードアップも必要なことだから、今回はスピードアップの話をしよう。(本当に大事なのは、スピードアップではなくテンポアップだけどね)
生きている間、僕らの心はいつも動いている。それは現実の僕たちも、登場人物も同じである。うんと単純化すれば、僕らの心というのは、ずっと0地点にいるのではなく、ー100から0へ、0から100へ、そしてまた0へと、まるで坂道だらけのマラソンコースのような所を走っているのである。何かに気がつくとか、心の中に怒りが込み上げてくるとか、相手の言葉に嬉しくなるとか、そういうのはみんな、言わば坂道を駆け上ったり、高い壁を飛び越えたりするようなものなのである。
生きている間、僕らの心はいつも動いている。それは現実の僕たちも、登場人物も同じである。うんと単純化すれば、僕らの心というのは、ずっと0地点にいるのではなく、ー100から0へ、0から100へ、そしてまた0へと、まるで坂道だらけのマラソンコースのような所を走っているのである。何かに気がつくとか、心の中に怒りが込み上げてくるとか、相手の言葉に嬉しくなるとか、そういうのはみんな、言わば坂道を駆け上ったり、高い壁を飛び越えたりするようなものなのである。
舞台の上には、「間」と呼ばれる時間が流れることがある。これは本来、台本に書かれたアクション(台詞を発声することも含む)とアクションの間(アイダ)の時間だ。まずはその「間」をふたつに分けてみたい。ひとつは台本に書かれていないアクション(目に見えるものに限定しよう)が行われるもの、もうひとつは目に見えるアクションが存在しないものだ。
前者がなぜ生じるかと言えば、台本に書かれているのがアクションのすべてではないからだ。「目が覚める」というト書きの次の行に、「ここはどこ?」という台詞が書いてあったとしても、そのふたつのアクションが単純に連続しているとは限らない。「目が覚める」というアクションをどのように具体化するか、「ここはどこ?」という言葉をどのように音声化するかは別としても、ふたつのアクションの間には、台本に書かれていない多くのアクションが存在する。おおざっぱに言っても、「ここはどこ?」と発言するためには「わからない」と感じる精神の動きが必要だし、そのような精神の動きが生まれるためには「周囲を見回す」動作がなければならない。しかもそれがきちんと伝わらなければ、観客は不思議に思うはずだ。「あの人、寝る前から知らない場所に行くことがわかってたのかな」と。
前者がなぜ生じるかと言えば、台本に書かれているのがアクションのすべてではないからだ。「目が覚める」というト書きの次の行に、「ここはどこ?」という台詞が書いてあったとしても、そのふたつのアクションが単純に連続しているとは限らない。「目が覚める」というアクションをどのように具体化するか、「ここはどこ?」という言葉をどのように音声化するかは別としても、ふたつのアクションの間には、台本に書かれていない多くのアクションが存在する。おおざっぱに言っても、「ここはどこ?」と発言するためには「わからない」と感じる精神の動きが必要だし、そのような精神の動きが生まれるためには「周囲を見回す」動作がなければならない。しかもそれがきちんと伝わらなければ、観客は不思議に思うはずだ。「あの人、寝る前から知らない場所に行くことがわかってたのかな」と。
演技をするというのはどういうことなのか、きちんと説明しなくちゃいけないと思うと、さっぱりわからなくなってしまう。僕自身も役者として舞台に立った経験は一応あるし(めちゃくちゃ下手な役者だったと思う)、それなりに勉強もしてきているつもりなんだけど、やっぱりよくわからない。そのくせ、見ている数だけは見ているから、「ああ、まだまだだな」ってことはすぐにわかる。そのくせ、「じゃあどうすればいいのか」ってことになると、実はよくわからなかったりする。
僕なりの理解なんだけど、演技をするということの中には、精神な部分と身体的な部分とがある。このふたつは密接に結びついていて、切り離すことはできないが、便宜上区分をすればそうなるような気がする。僕はなにをやるにしても「なにを」と「いかに」とのふたつをきちんと把握するのが大事だと思っているが、ここでいう「演技」というのは、主に「いかに」の部分が中心となる。本当は「なにを」と関わってくる部分はたくさんあるんだけどね。
僕なりの理解なんだけど、演技をするということの中には、精神な部分と身体的な部分とがある。このふたつは密接に結びついていて、切り離すことはできないが、便宜上区分をすればそうなるような気がする。僕はなにをやるにしても「なにを」と「いかに」とのふたつをきちんと把握するのが大事だと思っているが、ここでいう「演技」というのは、主に「いかに」の部分が中心となる。本当は「なにを」と関わってくる部分はたくさんあるんだけどね。
演技をするというのはどういうことなのか、あらためて考えてみると、やっぱり難しいなって思う。すごく単純に、悲しくもないのに泣く、楽しくもないのに笑うことが演技だって考えてもいい。つまり、嘘である。考えてみれば、芝居全体がものすごく大きな嘘なわけで、青い光が当たった白い布を青空だと言い張るのであれば、別に刺されてもいないのに苦痛の中で死ぬふりをしたところで、別にかまわないだろう。
そう考えるとひどく単純なことのようだが、実はそうでもない。
楽しくもないのに笑うことが難しいかどうかはともかく、少なくとも僕らは、楽しくて笑った経験は持っていると思う。笑う演技をする時には、楽しくて笑った自分の体験を、いわば再現するような方向で体を動かすことになるのだろう。これには、おおざっぱに言ってふたつのやり方がある。ひとつは「笑う」時の体の動きを調べて、正確にそれを再現しようという方向である。もうひとつは想像力の力で「楽しい」って感覚を自分の中に作り上げ、それに体をゆだねていく方向である。前者を身体的、後者を精神的な方向と呼ぼう。実際はそんなにきちんと切り離されるわけではなく、多かれ少なかれ組み合わせているはずだ。役者によって、どちらかが得意だなんてこともあるし、やろうとする演技によって、どちらの方が有効か、なんてことを考えなければならないことも多い。
そう考えるとひどく単純なことのようだが、実はそうでもない。
楽しくもないのに笑うことが難しいかどうかはともかく、少なくとも僕らは、楽しくて笑った経験は持っていると思う。笑う演技をする時には、楽しくて笑った自分の体験を、いわば再現するような方向で体を動かすことになるのだろう。これには、おおざっぱに言ってふたつのやり方がある。ひとつは「笑う」時の体の動きを調べて、正確にそれを再現しようという方向である。もうひとつは想像力の力で「楽しい」って感覚を自分の中に作り上げ、それに体をゆだねていく方向である。前者を身体的、後者を精神的な方向と呼ぼう。実際はそんなにきちんと切り離されるわけではなく、多かれ少なかれ組み合わせているはずだ。役者によって、どちらかが得意だなんてこともあるし、やろうとする演技によって、どちらの方が有効か、なんてことを考えなければならないことも多い。
昨日いくつかのシーンを見せてもらって(本当にわずかだったから、全体に当てはまることではないのかもしれないけど)、「ああ、いつものパターンだな」って思った。
KIMIGEKIの、特に女優に多いのだけど、とかく演技を丁寧に頭で考え、自分の動作などを丁寧にコントロールしていこうと努力する傾向がある。これは一般論としては非常によいことで、そのような努力が実りある舞台をたくさん作ってきたと思う。しかし時として、そのような姿勢が、芝居の何かを殺してしまうようなことも起こりうる。もちろん、上記の努力は絶対に必要だし、それ自体がいけないわけではなく、むしろそれを誠実にやっていこうと思うあまり、もうひとつの側面を忘れがちになってしまうと言った方が正確だろう。
KIMIGEKIの、特に女優に多いのだけど、とかく演技を丁寧に頭で考え、自分の動作などを丁寧にコントロールしていこうと努力する傾向がある。これは一般論としては非常によいことで、そのような努力が実りある舞台をたくさん作ってきたと思う。しかし時として、そのような姿勢が、芝居の何かを殺してしまうようなことも起こりうる。もちろん、上記の努力は絶対に必要だし、それ自体がいけないわけではなく、むしろそれを誠実にやっていこうと思うあまり、もうひとつの側面を忘れがちになってしまうと言った方が正確だろう。
あまりにも当たり前すぎて書くのも嫌になるようなことだけど、感情は人には見えない。それなのになぜ、人は他人の感情を感じることができるのだろうか。多くの場合、感情を音や形に置き換えることで、感情を示しているはずだ。シェイクスピアの時代であれば、多くの場合感情は音声、つまり台詞によって(意味だけではなく、抑揚や間やテンポも含めて)表現されていた。それはその時代の劇場の形態による面が多く、それに関してはかつて書いたような気がする。近代劇では、音声はもちろんだが、俳優の表情や仕草など視覚に訴える部分も多くなる。ラジオドラマではないのだから、当然であろう。
アニメやマンガを作るとしたら、作者の意図する感情を過不足なく表現できる表情の絵を描くことになるだろう。(本当は、今のアニメやマンガはもっともっと高度なことをやっているのだが、今は話を単純にするためにそう決めつけておく。ちょっと失礼だけど)。単純に言えば、うれしい時に笑った顔を描く。悲しい時に涙を書き込んだりしてみる。どうして、ある顔を見て「笑った顔」だと判断でき、「この人はうれしいんだ」とわかるのかというと、表情というのが一種の記号だからである。僕らは過去の経験から、ある種の形を「笑い」から「うれしさ」へと関連づけて考えているのだ。それを極限まで単純化したのが「スマイルマーク」や顔文字(^_^)である。
アニメやマンガを作るとしたら、作者の意図する感情を過不足なく表現できる表情の絵を描くことになるだろう。(本当は、今のアニメやマンガはもっともっと高度なことをやっているのだが、今は話を単純にするためにそう決めつけておく。ちょっと失礼だけど)。単純に言えば、うれしい時に笑った顔を描く。悲しい時に涙を書き込んだりしてみる。どうして、ある顔を見て「笑った顔」だと判断でき、「この人はうれしいんだ」とわかるのかというと、表情というのが一種の記号だからである。僕らは過去の経験から、ある種の形を「笑い」から「うれしさ」へと関連づけて考えているのだ。それを極限まで単純化したのが「スマイルマーク」や顔文字(^_^)である。

